レオナルド・ダ・ヴィンチ 《最後の晩餐》の魅力
2000年7月1日に放送された 美の巨人たち レオナルド・ダ・ヴィンチ 《最後の晩餐》を見ました。

レオナルド・ダ・ヴィンチの《最後の晩餐》は、単なる宗教画の枠を超えて、「人間の感情を描き切ったドラマ」として描いています。
レオナルドは、建築的な遠近法を駆使して、イエスのこめかみに小さく空けられた一点透視の消失点を中心に、視線を強制的にイエスへと導いています。
これは単なる技術ではなく、「神の言葉を中心とした世界の均衡」を視覚的に体現したものとも言えます。
弟子たちを3人ずつのグループに分け、それぞれのグループを三角の構図の中に入れることで、「12人の感情の波」を視覚的に読み取りやすく整理しており、それがまるで舞台劇のような緊張感を生んでいます。
誰が裏切るのか、その問いが絵の中で波紋のように広がっていく仕組みです。
当時の宗教画では常識だった「光輪」を描かなかったことは革命的です。
これはイエスや弟子たちを「まだ聖人になっていない、苦悩と葛藤の中にある人間」として描きたかった、というレオナルドの人間主義的な思想の表れです。
この絵には、奇跡や超越性よりも、「恐れ」「怒り」「悲しみ」などの生々しい感情があふれています。
だからこそ、私たちは500年を経た今でも彼らの動揺や心の叫びに共感できるのです。
本作で特筆すべきは、「手の表現」です。
レオナルドは弟子たちの手の動きに、言葉より雄弁な感情の爆発を込めました。
たとえば、両手を開いてイエスに問い詰めるフィリポ、金袋を咄嗟に隠そうとするユダ、頬杖をつきながら、真意を測ろうとするトマス、これらは全て「静止画である絵画」に、時間と心理の流れを感じさせる仕掛けです。
鑑賞者は、その手から会話や心の声を想像し、ドラマを頭の中で“再生”することになります。

ユダは多くの宗教画では「邪悪な存在」として端に追いやられがちですが、レオナルドは彼にも感情とリアリティを与えています。
緊張によって浮き出た首筋の血管や、焦りからくる身のこなしにより、彼もまた「罪を犯す弱い人間」として描かれています。
その扱いは、彼を完全に切り捨てるのではなく、人間の弱さを内包したまま物語に取り込むという、ルネサンス的な包容力を示しています。
《最後の晩餐》を観るたびに、私は「この絵は動いている」と感じます。
人物は静止していても、目と手が語り、空間がざわめき、視線が右往左往する――これは静かなパニックの中の、ある種の“群像劇”なのです。
レオナルドは、単に宗教的な場面を描いただけではありません。
彼は人間の心理を、神と人の間にあるドラマとして、科学と芸術を融合させながら描き出したのです。
その意味で、《最後の晩餐》は「神を描いた作品」ではなく、「神の前で揺れる人間の姿を描いた作品」であり、そこにこそ永遠の魅力があります。