美の巨人 円山応挙 「雪松図屏風」を見て

「タテ1m 55cm、ヨコ3m 62cm、六曲一双の屏風絵です。

 

 

右隻の男性的な黒松は、右上へと太い幹を伸ばし、1本の枝が左下に伸びています。

松の木肌のゴツゴツとした感触は筆を重ねて描いています。

 

 

左隻には二本の赤松が母と子のように描かれています。

右隻の黒松に比べて、柔らかな表現です。

その 松の葉を針のように細やかに描いています。

黒松と赤松が対になり、右隻には力強さ、左隻には優しさという対比があります。

それらを写実的でありながらも詩的に描いている点が、応挙の独自性を感じます。

背景には 金泥が塗られています

 幹を描くのに、応挙は 輪郭線を消し去った。墨の濃淡や滲みを計算して幹の質感、陰影を描き、幹の丸さを立体的に表そうとした。

松の葉は、中心点を作らず不規則に交差させることで松葉を多く感じさせる「みだれ」という技法を使っています。

やがて消えてゆく雪を表現するには、紙地を利用して何も描かないのが一番ふさわしい。

余白の部分を雪に見立てています。

これが応挙の描かずに対象の本質を描くということです。

応挙は物の形の中にある真実、それを描こうとしています。

「写形純熟ののち気韻生ず。」つまり、形を完全に写すことができれば 本質が自ずと生まれるという意味です。

なぜこんなにも綺麗に雪の白さを表現できたのか。描かれてから随分経つのになぜ白さが保たれているのか。

絵を書いている裏側に貼る裏打ち紙、ここに米粉紙という特殊な紙を使っています。

これはお米の粉を刷り込んだ和紙です。これが白さの秘訣です。

 

 

 

私たちが 雪松図屏風から受ける印象は、画面全体に広がるさわやかさ、晴れやかさです。

輪郭線が作り出す硬さや重苦しさがないからかもしれません。

足元に金の砂子というものが撒いてあります。

キラキラ光っています。

これがあることによって、雪の結晶に日光が反射していることを表現しています。

応挙は光と大気を描こうとした。早すぎた印象派のように。」

 

 この番組から、円山応挙の「雪松図屏風」が持つ芸術的な深さと、それを丁寧に読み解こうとする鑑賞者の感動がよく伝わってきます。

特に印象的なのは、応挙が写実を超えて“本質”を描こうとしていたことに対する鋭い洞察です。

 

 また、黒松と赤松の対比がとても印象的です。

右隻の黒松の力強さと、左隻の赤松の優しさを、写実的でありながらも詩情豊かに表現しているという指摘に、応挙の画家としての繊細な観察眼と心の深さを感じます。

 母と子のような赤松の描写からは、単なる自然描写ではなく、人間の感情や関係性をも投影していることが読み取れ、絵画が静かに語りかけてくるような気がしました。

 

 そして、あえて“描かない”ことで雪の白さを表現するという発想は、まさに日本美術の「余白の美」を象徴しているように思います。

描かないことで、雪の持つ静謐な質感が生まれる。

雪は儚く、やがて溶けていく存在。

それを「無」の形で示すことで、時間や移ろいまでも表す。

鑑賞者は、描かれていない空白に「自ら雪を見てしまう」。

このとき鑑賞者は「能動的に絵に参加している」状態になります。

 

 さらに、白さを保つために裏打ち紙に米粉紙を用いたという紹介は、技術的な側面にも目を向けており、絵画が長く美しさを保つ背景にある工夫にまで感動が及んでいることを表しています。

 

 

 

  金泥や金砂子といった伝統的な装飾と、写生によるリアルな描写との融合も、彼の革新性を強く印象づけています。

  特に「写形純熟ののち気韻生ず」という言葉が、応挙の芸術哲学をよく表しており、形を極めた先に見える精神性を大切にしていたことが分かります。

  最後の「早すぎた印象派のように」という表現には、応挙の芸術が時代を超えて現代の目にも新鮮に映るという感動が込められていて、非常に共感を呼びます。