ラジオ番組「放送100年 保阪正康が語る昭和人物史 やなせたかし(4)」を聞いて
この番組を聞いてとても感動したので、ここに書いておきます。
やなせさんは80代になるころから、ステージで歌ったり、ミュージカルに出たり、人前に出るようになられたんですね。
もともとは、すごく内向的で控えめな方なんです。
でも、ある時から明るく華やかに生きようというふうに決めたんだと思うんですね。
74歳の時に、最愛の伴侶、妻ののぶさんと死別していらっしゃるんです。
それが大きかったんじゃないかなと思っています。
あの時は本当に落ちこまれて、もう夜も眠れない、食べれないっていうことになったんです。
しかし、淋しさに負けないように気持ちを切り替えたのです。
のぶさんという方がですね、前向きでも元気いっぱいの方だったんですね。
で、なくなる前に「私の命はあなたにあげるわ。長生きしていい仕事をしてね。」っておっしゃったと言うことなんです。
やっぱりそののぶさんの分も明るく元気に生きようとなさったんじゃないかと思っています。
保阪正康さんは、「やなせさんの心の中で自分一人で生きてきたんじゃないっていうようなことを自覚した時に、奥様と作ってきた生活をもう一つ、ステップアップし、次元を高めて、世間と社会と残された時間と歴史の中で、自分は自分の姿をさらけ出して行くってことに決めたんじゃないでしょうかね。」と言う。
90歳を超えた時、先生は生前葬の計画を立てていらっしゃったんです。
仕事も引退するので、みんなと明るくお別れしようと言うことで、パーティーの企画をしていらっしゃったんですね。
その時、東日本大震災が起こるんですね。もう1回奮起なさって、何か自分に出来ることがあるんじゃないか、と思ったんですね。
震災後、避難所からラジオ番組にアンパンマンのマーチのリクエストがたくさん来て、そこで子どもたちがアンパンマンのマーチを大合唱しているというのがニュースになったんですね。
それを知った先生が本当に感動なさって、絵を描いたり、ポスターを作ったりして被災地に送って、よく年にはアンパンマンの映画で復興テーマにした映画を作りになるんですね。
本当にその亡くなられる時も、その直前まで病院のベッドで被災地に送るためのアンパンマンの絵を色紙に書いてらっしゃったと言うことです。
やなせたかしさんの人生の後半、とくに妻・のぶさんとの死別を経てからの生き方に、深い感銘を受けました。
それまで内向的で控えめだったやなせさんが、あえて「明るく華やかに生きる」ことを選んだという姿勢には、妻の「私の命はあなたにあげるわ。長生きしていい仕事をしてね。」という言葉にも表れた深い深い愛情が感じられます。
最愛の人を失って深い悲しみに沈んだとき、妻に励まされ、「淋しさに負けないように気持ちを切り替えた」こと、それがやなせさんの新たな人生の出発点だったのだと思います。
保阪正康さんの言うように、「自分一人で生きてきたんじゃない」という気づきが、やなせさんの表現や行動をさらに豊かにし、社会や未来の子どもたちに向けて、自分の全存在を注ぐという生き方につながったのでしょう。
さらに、アンパンマンのマーチのリクエストがたくさん来て、そこで子どもたちがアンパンマンのマーチを大合唱していることを知ったとき、やなせさんは本当にうれしかったでしょうね。自分が今まで伝えようとして頑張ってきたことが分かってもらえていた、と実感でき、感慨無量だったとおもいます。
90歳を超えてもなお、自らの創作で被災地を励まし続けたのは自然の成り行きと言ってもいいと思います。
人生の終わりが近づいてもなお、「誰かのために」と思って行動する――やなせさんは、生まれながらの優しさと勇気を持ち続けながら人生を最後まで生き抜いた。
自分も最後まで明るく前向きに生きたいと強く思います。それが自分のためにも、家族のためにも、人のためにもなると思います。