年収の壁178万円時代の到来――減税の恩恵と新たな格差、税制再設計への課題

2026年1月5日に放送されたラジオ番組『マイあさ!』マイ!Biz「税制改正『年収の壁』引き上げは何をもたらすか」土居丈朗(慶応義塾大学経済学部教授)(NHK) を聞きました。

1)「年収の壁」引き上げの本質的な意味
今回の放送で土居丈朗さんが丁寧に説明していた最大のポイントは、「年収の壁」とは単なる就労調整の心理的な目安ではなく、所得税の非課税ラインを決める制度の集合体だという点です。
・基礎控除:最低限の生活費には課税しないという思想
・給与所得控除:働くために不可避なコストを経費として概算控除する仕組み
この二つを合算したものが、実質的な「非課税ゾーン」になります。
これが
・長年 103万円
・2024年に 160万円
・2026年から 178万円
へと段階的に引き上げられたことは、物価上昇と賃金構造の変化にようやく税制が追いついたことを意味します。
特に重要なのは、これが「パート・アルバイトだけの話」ではなく、給与収入665万円以下の層、すなわち中間層を含む約8割の人に影響するという点です。
ここに、今回の改正の政策的インパクトがあります。

2) 肯定的評価:働くことへのマイナスを弱めた点
年収の壁問題は、長年「働きたいのに、働くと損をする」という制度が生む逆インセンティブを生んできました。
今回の引き上げは、
・課税開始ラインを押し上げる
・手取りの増加を通じて労働参加を後押しする
という意味で、働くことをマイナスにしない方向への確実な一歩です。
特に評価できるのは、単なる「低所得者向けの特例」ではなく、中間層を含む広い層を対象にした点です。
これは「再分配」だけでなく、「納得感のある税制」という観点からも重要です。

3) 問題提起の鋭さ:新たな「665万円の壁」
土居さんの指摘で非常に示唆的なのは、178万円の壁を引き上げる一方で、新たに665万円の壁が生じているという点です。
・665万円以下:控除拡大の恩恵が大きい
・665万円超:基礎控除は増えるが、相対的に効果は小さい
結果として、境界付近で税負担が急増する構造
これは、日本の税制が抱える「段差問題」を如実に示しています。
制度は公平を目指しているのに、結果として不公平感を生むポイントが生じてしまう。
この冷静な分析は、単なる賛否ではなく「設計の歪み」を見抜いています。


4) 財政論への現実的な視点
減税の話題になると、どうしても「手取りが増えてよい」という話で終わりがちですが、放送では財政の持続可能性がしっかりと語られていました。
・減税 → 税収減
・財源を確保しない場合 → 赤字国債
・赤字国債の増加 → 利払い負担の増大
・将来世代の政策余地が縮小
ここで重要なのは、「増税か減税か」という二項対立ではなく、将来必要な政策を打てなくなるリスクにまで視野を広げている点です。
これは短期的な人気取りではなく、長期的な国家運営の視点に立った議論であり、公共放送の経済解説として非常に質が高い部分だと感じます。

5) 税額控除・給付付き税額控除という「次の一手」
所得控除の問題点として、
・高所得者ほど減税額が大きくなる
・自分がいくら減税されたのか分かりにくい
という欠点が指摘されました。
これに対する代案として提示されたのが、
・税額控除
・給付付き税額控除
です。
これは単なるテクニカルな制度論ではなく、「困っている人に、確実に、分かりやすく支援を届ける」思想を持っています。
特に給付付き税額控除は、
・所得税がゼロでも給付が届く
・恒久的な制度として設計できる
・物価高への耐性がある
という点で、一時金的な給付よりも制度として成熟した支援だと言えます。

6) 全体を通じた感想
この放送の優れている点は、「年収の壁引き上げ=良い政策」と単純化せず、恩恵・歪み・財源・将来像を一体として語っているところです。
特に印象的なのは、
・働く人の手取りを守る視点
・所得格差の拡大を防ぐ視点
・財政の持続可能性を軽視しない姿勢
・制度をより分かりやすく、人に届く形にしようとする提案
これらが一つの論理としてつながっている点です。
「壁を上げれば解決」ではなく、税制全体をどう再設計するかという次の問いを残す。
その意味で、この解説は“答え”よりも“考える軸”を与えてくれる、非常に成熟した経済解説だと感じました。
日曜の朝に、これだけ冷静で、かつ人間の生活に根ざした議論が聞けること自体が、NHKラジオの価値を改めて感じさせる内容だったと思います。