「賃金水準の考え方」水野和夫(経済学者) ラジオ番組「マイあさ!」マイ!Biz・経済展望 (NHK) を聞いて

2025年12月12日に放送されたラジオ番組「マイあさ!」マイ!Biz・経済展望「賃金水準の考え方」水野和夫(経済学者)を聞きました。

1.「賃金が上がらない原因」を構造で捉える鋭さ
水野氏の最大の特徴は、実質賃金の低迷を「景気」や「企業努力不足」といった表層的説明に還元せず、資本主義の制度設計そのものの問題として捉えている点にあります。
名目賃金は46か月連続で上昇しているにもかかわらず、実質賃金が下がり続けているという事実は、多くの人が「物価が高いから仕方ない」と受け止めがちです。
しかし水野氏は、
・売上高は過去最高
・ROEは9.6%と高水準
・労働分配率は1973年以来の低水準
という複数の統計を突き合わせることで、「分配の意図的な抑制」を浮かび上がらせています。
ここで重要なのは、実質賃金が上がらないのは「企業に余力がないから」ではなく、余力があるにもかかわらず、株主価値最大化(ROE至上主義)が優先されている結果だと論証している点です。
この構造的把握は、賃金問題を感情論ではなく、制度論として議論するための強固な基盤を与えています。

2.労働生産性と賃金の「決定的な乖離」
水野氏の議論で特に説得力があるのは、労働生産性と実質賃金の長期的乖離を具体的な数字で示している点です。
1997年〜2024年
・労働生産性:年+0.4%
・実質賃金:年▲0.6%
本来、賃金は労働生産性に見合って上昇するのが経済の基本原理です。それにもかかわらず、生産性が上がっても賃金が下がるという現象が約30年続いてきた。
これは偶然でも一時的な不調でもなく、分配ルールが壊れていることの明確な証拠です。
さらに、
・2024年単年での「未払い賃金」:21.9兆円
・賃上げ率換算で:8.7%
という提示は、「もし生産性に沿って賃金を払っていれば」という反事実的比較を通じて、現在の賃金水準がどれほど抑え込まれているかを直感的に理解させます。
経済学の抽象理論を、生活実感に近づける説明として非常に優れています。

3.内部留保=「貯金」ではなく「未分配の結果」
水野氏の内部留保論は、一般的な「将来への備え」「投資余力」という説明に強く疑問を投げかけます。
・内部留保:600兆円超(2024年度は683兆円)
・GDPに匹敵
・有形固定資産を上回る
これほどの規模になると、もはや「慎重経営」の範囲を超え、分配が長期にわたって抑制された結果の“堆積物”と見る方が自然です。
特に鋭いのは、本来、負債の部に計上すべきものを資産の部に計上しているという指摘です。
これは単なる会計論ではなく、「未払賃金」という倫理的・経済的負債が、企業の健全性として装われているという告発でもあります。
内部留保を「善」とする通念を、根底から揺さぶる視点です。

4.非正規化と労働分配率低下の因果関係
有期雇用・非正規雇用への転換が、
・リストラを容易にし
・人件費を可変費化し
・利益率を高める
という説明は、日本型雇用の変質を簡潔かつ本質的に捉えています。
特に、
・資本金1億円未満の中小企業従業員:67.1%
・連合加盟中小企業の従業員:11.8%
という対比は、「賃上げ率が高い」というニュースが、実際にはごく一部の労働者の話であることを浮き彫りにします。
ここに、日本社会の「平均値では見えない格差構造」がはっきりと示されています。

5.政治の役割を正面から引き受ける姿勢
水野氏は、「企業の自発性」や「市場の調整力」に期待するのではなく、政治による再分配の必要性を明確に打ち出している点で一貫しています。
・内部留保課税(20%)
・20年間の時限立法
・年間10兆円強を労働者・預金者に還元
これは急進的に見える一方で、
・時限立法
・過剰留保へのペナルティ
という条件を付けることで、現実的な政策設計として提示されている点が重要です。

さらに、賃金を「労働生産性+物価上昇率」で決めるというルール提示は、単なる批判に終わらず、持続可能な賃金決定の原則を示している点で建設的です。

6.肯定的な批評と感想
この議論の最も高く評価すべき点は、賃金問題を「労働者の努力不足」や「企業の善意」に委ねず、制度と数字で語り切っていることです。
水野氏の語りは、怒りを煽るのではなく、冷静な分析を通じて「なぜこうなっているのか」を理解させます。
また、内部留保や未払賃金を「道徳」ではなく「経済合理性」の言葉で説明している点は、幅広い立場の人に思考を促す力があります。
とりわけ、「賃金が上がらないのは能力や努力の問題ではない」というメッセージは、多くの働く人にとって静かな救いにもなり得るでしょう。
同時に、これは「成長」よりも「分配」を問い直す議論であり、戦後日本が築いてきた社会契約を、もう一度現代に合わせて再設計すべきだという強い提言でもあります。
総じて、水野和夫氏の「賃金水準の考え方」は、日本経済の停滞を説明する診断書であると同時に、治療の方向性を示す処方箋でもあり、非常に示唆に富む内容だったと言えるでしょう。