マイあさ!  サタデーエッセー「画家は何でワケのわからない絵を描くのか?」を聞いて

2025年8月2日に放送されたラジオ番組 マイあさ!  サタデーエッセー「画家は何でワケのわからない絵を描くのか?」南伸坊(イラストレーター)を聞きました。

この番組で南伸坊さんが語った内容は、「わからない絵」をめぐる私たちの認知と、芸術の進化への見方をやさしく解きほぐしてくれるものでした。

番組の核心にあるのは、私たちが「わからない」と感じる絵が、実は「見るためのルールが変わっただけ」だという点です。

印象派の絵が最初に否定された理由は、それが当時の「正しい絵の描き方」から外れていたからです。

写実的で、滑らかに仕上げられたラファエルやダ・ヴィンチの絵と比べ、「雑」「乱暴」と見なされた。

けれど、日本の伝統絵画(水墨画、浮世絵など)には、筆跡や木目など「不完全さ」や「過程の痕跡」がすでに親しまれていた。

つまり、日本人は「多様な絵のあり方」をすでに受け入れていたという文化的背景が語られます。

セザンヌは、他の画家たちが技術で「ごまかして」いたところを、ごまかせなかった。

それゆえに、「下手さ」が絵の本質として浮き上がり、むしろそれを押し通したことで、逆に新たな芸術の形を切り拓いた。

視点の固定化(=写真的な見方)に抗い、人間が本来持つ「多視点的な見方」──見るという行為の本質を追求した点が、革新的だったと語られています。

ピカソの福笑いのような顔の絵も、一見すると「ふざけている」「子どもっぽい」と思われがちですが、その実、非常に本質的な問いへの挑戦が込められている。

人間は「顔全体」ではなく、「目や口などパーツの組み合わせ」で感情を読み取っている。

つまり、視覚とは決して全体を一望する機械的なものではない。

ピカソは、視覚のプロセスそのものを可視化し、「感じているように描く」ことに挑戦した。

その結果として、私たちは「訳がわからない」と感じてしまう。

南さんの語りを通じて、「ワケのわからない絵」という表現が、いかに私たちの“慣れ”や“前提”に根差しているかをあらためて実感しました。

現代美術や抽象画を前にすると、多くの人が「これは何を描いてるの?」「何が言いたいの?」と戸惑います。

でも、それは「絵はこうあるべきだ」という無意識の思い込みに過ぎない。

絵は、“何を描いているか”ではなく、“どう見るか”を問いかけてくる存在でもあるのです。

セザンヌの「描けなさ」を出発点とした誠実さ、ピカソの「視覚の本質」への探求、こうした背景を知ると、彼らの作品の見え方が変わります。

「乱暴に見える筆致」や「福笑いのような顔」は、視覚と感情の深層に迫る試みであり、むしろ私たちの「当たり前」を揺さぶる力を持った“発明”だったのだと気づかされました。

そして、「訳がわからない」と切り捨てる前に、絵に向かって素直な好奇心を持ってみる――それが、現代のアートと対話する第一歩なのだと、あらためて感じました。